『ごめんね・・・?』

首をかしげながら「ごめんね・・・?」と謝られたら男の子はなんでも許してくれると豪語する小悪魔的な子もいれば、正々堂々と大きな声で「ごめんなしゃい!」と言ってくれればなんでも許す親バカな方も。
謝り方って様々です。
どんなに心から謝ったとしても、ガムを噛みながらでは相手に伝わるはずはありませんよね。
新社会人になった方で、研修を受けたとしても「謝り方」について学習した方は少ないのでは?
「え?『ごめんね』とか、『すみません』ってきちんといえばいいんじゃないの?」と思われている人は、まずこのサイトで勉強してください。

ここでは、誰でもできる様々な謝り方をご紹介します。

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謝罪に伴う行為

日本においては一般に、口頭であるいは文書で謝罪の言葉を述べる、頭を下げるなどの行為がとられることが多い。団体であればトップが謝罪する。個人的に謝罪する、証人をつれて謝罪する、謝罪内容を文書化する、謝罪を公表する、テレビで謝罪するなど種々の方法がある。また、金銭や物品によって謝罪の意を示し、解決を図ることもある。しかしこれらの行為のみでは根本的な問題の解決には至らず、相手の悪感情を軽減するに留まる。場合によっては、謝罪する方は謹慎したり、極端な場合、職を辞することもある。

謝罪の本態

謝罪する事の本態は、詫びた方、または詫びられた方、または双方の再出発(reset)の為のセレモニーである。通常はどちらかであり、問題の解決でない場合が普通である。

不祥事における謝罪

企業などの不祥事の場合は社会より誠意ある謝罪が求められる。この対応が不十分であれば不祥事以上に批判を浴びることになりかねない。しかしながら謝罪一辺倒で補償や賠償が不十分な場合や、対象に実質的な罰が与えられない場合も批判を浴びることがある。

歴史問題における謝罪

歴史問題における謝罪は主に国家が行った戦争や紛争、政策による被害者とされる側への謝罪である。不祥事等と較べ謝罪の必要性や加害者、被害者の定義が曖昧である為、加害者とされる側が謝罪を示したとしても被害者とされる側からは「謝罪ではない、謝罪が十分ではない」と批判されることがある。逆に加害者とされる側は謝罪すること自体を「弱腰、自虐的なこと」と批判することがある。

  • 日本のハンセン病政策における、らい予防法が、人権侵害などで問題になった。日本政府は、1996年にらい予防法を廃止し、首相、厚生大臣らが患者に謝罪し、またその後、らい予防法違憲裁判になり、2001年5月首相は控訴を断念し、新聞紙上で謝罪し、7月頃各県知事が療養所において謝罪した。これは予防法において、入所前には都道府県がらい行政を行っていたからである。また、入所者の入所期間の判決の違憲の期間(1955年-1996年3月31日)に応じて、入所者に国家補償を行った。

過度の謝罪要求

加害者の周囲を取り囲むなど、圧力をかけて謝罪させた場合には、刑法の強要罪に抵触する恐れがある。

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許しを願ったカノッサの屈辱

カノッサの屈辱(カノッサのくつじょく、ドイツ語:?Gang nach Canossa、イタリア語:?Umiliazione di Canossa)は、聖職叙任権をめぐってローマ教皇グレゴリウス7世と対立していた神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世が、1077年1月25日から3日間、教皇による破門の解除を願って北イタリアのカノッサ城に赴いて許しを願ったことをいう。

事件の概要

ハインリヒ4世は北イタリアにおける影響力を増すために、自分の子飼いの司祭たちをミラノ大司教、フェルモやスポレトの司教などに次々と任命した。教皇は司教の任命権(叙任権)が君主ではなく教会にあることを通達し、対立司教の擁立中止を求めたが、ハインリヒ4世は聞き入れなかった(これを叙任権闘争という)。グレゴリウス7世が皇帝の破門と皇帝権の剥奪をほのめかしたため、ハインリヒ4世は激怒し、1076年1月に独自の教会会議を開いて教皇の廃位を宣言した。ここに至って教皇も、1076年2月にハインリヒ4世の破門と王位の剥奪を宣言した。

かねてからハインリヒ4世への敵対意識の強かったザクセン公はじめドイツの諸侯たちは、これを機会にとばかりハインリヒ4世に叛旗を翻し、1077年2月にアウクスブルクにおいて会議を開いて新しいドイツ王を決めることを決定し、権威の付与者にして仲裁者として教皇を会議へ招聘した。諸侯はハインリヒ4世が教皇に謝罪しなければ後継王が決まらずとも王位を空位とみなすことも決議した。ここにいたってハインリヒは完全に手詰まりとなり、教皇に使節を送って許しを乞うた。教皇がこれを拒絶したため、皇帝は自ら教皇に謝罪することになった。

彼は教皇がアウクスブルクでの会議に参加する前に贖罪するため、北イタリアへ向かった。ハインリヒは、会議に向かう途中の教皇が、トスカーナ女伯マティルデの居城カノッサ城に滞在していることを知った。

1077年1月、突然現れたハインリヒに教皇は戸惑い、捕縛を恐れて城から出ようとしなかった。ハインリヒは武器をすべて置き、修道士の服装に身をつつんで城の前で教皇に赦しを求めた。教皇は破門を解く旨を伝え、ローマへ戻った。

ハインリヒはドイツに戻ると直ちに反対派の諸侯を制圧し王権を確立した。その後、再び叙任権をめぐって両者は争うが、今度はハインリヒが軍勢を率いてイタリアに乗り込みローマを囲んだ。教皇は辛くも包囲を脱出し、1085年にイタリア南部のサレルノで客死した。叙任権闘争は、ドイツ南部のヴォルムスで叙任権は教皇にあることを定めた協約(ヴォルムス協約)が成立する1122年まで続いた。

後世への影響

この事件は叙任権闘争、ローマ教皇対神聖ローマ皇帝の長期の抗争における一事件でしかないが、この後ローマ教皇庁では皇帝ですら教皇に跪いたと教皇権の優位性の宣伝に使われた。一方16世紀になると、ドイツのプロテスタントは反教皇の立場からこの事件を取り上げた。19世紀には民族主義の高まりの中でビスマルクが、この事件をドイツの屈辱として取り上げるなど、政治的宣伝に利用された。ヨーロッパでは現在でも「カノッサの屈辱」は「強制されて屈服、謝罪すること」の慣用句として用いられている。

罪の告白をし、悔い改める懺悔

懺悔(さんげ)とは、それぞれの宗教における神、聖なる存在の前にて、罪の告白をし、悔い改めることをいう。

仏教における懺悔

仏教において懺悔(さんげ)とは、自分の過去の罪悪を仏、菩薩、師の御前にて告白し、悔い改めること。本来はサンスクリット語で「忍」の意味を持つ。半月ごとに行われる布薩では地域の僧侶が犯した罪を告白し懺悔するほか、自恣という僧侶同士が互いに罪を告白しあう行事もあった。 また、懺悔文という偈文があるほか、山岳修験では登山の際に「懺悔、懺悔、六根清浄」と唱える。

天台宗懺法

天台宗の法要儀式には懺法(せんぼう)と言うものがある。懺法とは、自ら知らず知らずの内に作った諸悪の行いを懺悔(さんげ)して、お互いの心の中にある「むさぼり・怒り・愚痴」の三毒を取り除き、自分の心をさらに静め清らかにする儀式である。12世紀中頃には宮中行事の一つでもあった。

『吾妻鑑』の記述には、12世紀終わりの正治2年(1200年)2月2日条に、頼朝没後、将軍家北条政子が法華堂において法華懺法を始行せられる、という記事が見られる。武家の政道が始まり、約15年後には懺法が行われていた事になる。

  • 法華懺法 -?法華経を読み儀式を行う。天台宗懺法もこの分類に入る。
  • 観音懺法 -?観世音菩薩を本尊として儀式を行う。
  • 阿弥陀懺法
  • 吉祥懺法

また、懺法と同様に、懺悔する儀式に悔過(けか)がある。記述例として、『日本書紀』皇極天皇元年(642年)6月25日条に悔過を行った記録があるが、その理由は、雨乞いのために牛馬を生贄に出したが効き目がなかったので、仏の教えに従って悔過をして雨乞いしたというものである(道教的儀礼から仏教的儀礼を採用した形である)。

修験道

仏教の影響を多分に受けた修験道においても懺悔は行われ、山祇(山神)の好む秘密告白と祓えとの一分岐である。懺悔をする対象が直接的であり、修行の一環でもある(この点において、仏教ともキリスト教とも異なる)。

キリスト教における懺悔

キリスト教では「ざんげ」と読み、その影響からか、現在では「懺悔」の読み方は一般的には「ざんげ」となっている。

「懺悔」は聖公会などで多用される語彙であるが、キリスト教の全ての教派で日常的に使われる表現ではない。カトリック教会での秘跡は「赦しの秘跡」と呼ばれ、正教会での機密は「痛悔機密」と呼ばれる。

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